つれづれなるままに歴史にむかひて

東京大空襲から逃れた一人の女の子の実話です。 ここでは私が知った歴史を綴っています。

炎の橋

「戦火に燃えた日も同じ三月のはじめでした。」

このまま忘れられて時代が過ぎていくなんて余りにも悲しすぎます。

次世代の若者達に平和や家族の営みの大切さを伝えられるなら
悲しみのなかにもささやかな救いはあるでしょう。
アメリカとかソ連とか中国とか国際的問題は別として人間と世界の問題として
人々のたくさん集うところに歴史として伝承され二度とこのような
不幸をさけるべきだと私はおもい続けてきました。

下流の対岸は桜が今を盛りと咲きはじめていました。
戦火に燃えた日も同じ三月のはじめでした。
桜はまだ堅い蓄の頃だったでしょう。
その橋の上にたって当時父母達と吾妻橋から炎の中を死を覚悟して
逃れた道すじを見おさめました。

左の方には隅田川にそって高速道路がひかれ西岸のピル群にはさまれて
川は私に悲しい歴史を語リながら鏡のように波もなく堂々と流れています。
悪夢のような戦災の跡も今日のように愚かな人間共の行為をよそに
桜の花はひときわ美しく咲いて見えた事と思います。

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「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」

あの日炎上していた向こう岸も桜が咲きそろい
豊かな隅田川の水にうす桃色の姿をそえていました。
私はお花見の準備の人の中を通りぬけ急いで言問橋にむかいました。
前方に見える言問橋はかもめが翼を大きく開げたように水色に輝いていました。
桜の花を両側にかかえ高いピルを背景に隅田川のうえに言問橋は平和そのものです。
橋をくぐって、二そうのボンボン蒸気が後先になってこちらへ走ってきました。

「戦災者の記念塔はどこでしょうか」
炎の橋行き交う何人かの人に尋ねたのですが誰も知らないといわれました。


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言問橋上から戦火を逃れた道を見渡す


頭からある筈と信じていましたからそれらしいものが何もないのが実に意外でした。
現場にゆけば分ると思いこんで来た私がうかつだとは思えません。
あのような大きな犠牲を出した記念碑がこのあたりに誰にも分るようあるのが
当然だと私は思っていました。
私には信じられない想いでした。
桜橋という新しい橋が言問橋の上流に見えるのに記念碑はその日は見つかりませんでした。

店の開店時間を前に私には時間がなかったので当時を思い出しながら
言問橋を独りで歩きはじめました。
橋の巾はかなり広く仕事の自動車がゆうゆうと走ってゆきますが
人は私意外は誰も渡っていませんでした。
あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。

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母子の倒れていたあたりに桜のタイル

言問橋はこんなに大きな橋だったのに戦災の時、向島側からも浅草側からも
逃げて来た人がぶつかりあってその混乱の渦の中に
上から油脂焼夷弾の総攻撃にあい、折からの暴風の炎の火の粉で恐怖におののきながら
亡くなった人達の魂はその事を知る私や何人かの遺族が弔うだけでは
酷どすぎるのではないかと私には思えました。

「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」

「あったl 」 と独りで思わず歓声をあげてしまいました。
川幅三十メートル位に思える小さな川にかかる 可愛い橋でした。
橋の名も「枕橋」とかいてあり幻の橋にふさわしい良い名だと思いながら
橋のたもとを見回すと細い桜の木が植えであって七分咲きに花をつけていました。
私と記念写真を撮りました。
なんと橋のむこう側には茶店まで出ていました。
川には船が二、 三そう休んでいてのどかにゆれていました。
久しぶりにとても幸せな気持になって橋を渡りました。

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B29 に総攻撃を受ける言問橋〈昭和20 年3 月10 日〉


これも後にわかった事で今 は橋の上に高速道路がかかり
その面影もないのですが円生の落語「百年目」に生き生きと語られております
「柳橋を出て吾妻橋を渡り枕橋を渡って…」と渡し船で昔文人たちが通う
艶っぽいところだった様子です。
昔はこの小さな川から隅田川に出る角に立派な八百松という料亭があったそうです。
風流な光景が想像されます。
戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。
この辺りかと思われるところに何人かの人がもうお花見を始めていました。
今も変わらない下町らしく季節を楽しむ気風を羨ましく思いながら
私は静かに対岸の景色を眺めました。


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平和を取り戻した炎の橋(言問橋) 

「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」

「もうすぐだ!」
吾妻橋を渡り終わってあの私の家族「生と死の分かれ道」の角にたちました。
みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。
今はサッポロビールではなくアサヒビールに変っていました。
驚いた事にあの地点の真上にかの有名なアサヒビールの広告塔が建っていたのです。

「もしかしたら?」

と少しは思いましたがまさか我が家の生と死の道標のまったく頭上に
造られているとは思いもよりませんでした。
ビールの泡?雲?お芋?その奇妙なビール会社の広告塔は
意表をついて話題ではありましたが高速からみると
町の景観を損なう感じがしていました。
イタリヤの新進作家が聖火台の炎をイメージして製作したということが
後に分りましたが出来れば高速道路から眺める人々を配慮して
炎の方向を天に向けてほしいものだと思っていましたが
現金なもので私の記念塔となると愛着が湧いて来ました。


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アサヒビール(昔サッポロビール)


高速道路からではなく下から見つめると台の黒と黄色のコントラストの調和が
なかなか良くみえてきました。
そんなことを思いながら重浦さんの家のあったあたりへの道に向いました。
老舗の海老屋も包丁の正本も店鋪は昔の場所には出していないようでした。
懐かしい重浦さんの長家の辺りには、平凡な家々が立ち並んでいました。
昔の長屋はアパートに変わりました。
たしか子供の頃の記憶では小さな橋を渡った記憶がありました。
そんな所に隅田川の他に川があるのだろうか?
50年前の記憶です。
自信はありませんでしたが道をたどってゆくと橋があったのです。


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記憶は間違っていなかった枕橋

「あの日から五十年の歳月がたちました。」

あの日から五十年の歳月がたちました。
あの炎の嵐の渦巻く大空襲の日とはうって変って
今日の吾妻橋はおだやかな春でした。
吾妻橋の上から兄達と凧あげをして遊びまわった駒形橋もみえました。
戦争の事を振り返る暇も無く前を向いて懸命に生けて来た日々が
愛おしく想えました。
厩橋、両国橋を経て娘達が結婚式をあげた東京ベイブリッジのある川下へ
この水がつながっていたおかげです。

春のうららの隅田川
のぼり下りの舟人が…

思わず口ずさみたくなるような春風のそよぐ橋を渡たりました。
父とよく手をつないで吾妻橋を渡ったものでした。
ボートの早慶戦や寒中水泳もここで見物したのを覚えていました。
川上の方をみると東武線の為の橋がみえました。
そのむこうが炎の橋となった言問橋なのです。
私は感慨無量になりました。


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吾妻橋より言問橋を望む
ギャラリー
  • 「戦火に燃えた日も同じ三月のはじめでした。」
  • 「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」
  • 「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」
  • 「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」
  • 「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」
  • 「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」
  • 「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」
  • 「あの日から五十年の歳月がたちました。」
  • 「浅草を知る戦災を体験した生存者のいかに少なかったことか!」

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