つれづれなるままに歴史にむかひて

東京大空襲から逃れた一人の女の子の実話です。 ここでは私が知った歴史を綴っています。

吾妻橋

「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」

「あったl 」 と独りで思わず歓声をあげてしまいました。
川幅三十メートル位に思える小さな川にかかる 可愛い橋でした。
橋の名も「枕橋」とかいてあり幻の橋にふさわしい良い名だと思いながら
橋のたもとを見回すと細い桜の木が植えであって七分咲きに花をつけていました。
私と記念写真を撮りました。
なんと橋のむこう側には茶店まで出ていました。
川には船が二、 三そう休んでいてのどかにゆれていました。
久しぶりにとても幸せな気持になって橋を渡りました。

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B29 に総攻撃を受ける言問橋〈昭和20 年3 月10 日〉


これも後にわかった事で今 は橋の上に高速道路がかかり
その面影もないのですが円生の落語「百年目」に生き生きと語られております
「柳橋を出て吾妻橋を渡り枕橋を渡って…」と渡し船で昔文人たちが通う
艶っぽいところだった様子です。
昔はこの小さな川から隅田川に出る角に立派な八百松という料亭があったそうです。
風流な光景が想像されます。
戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。
この辺りかと思われるところに何人かの人がもうお花見を始めていました。
今も変わらない下町らしく季節を楽しむ気風を羨ましく思いながら
私は静かに対岸の景色を眺めました。


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平和を取り戻した炎の橋(言問橋) 

「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」

「もうすぐだ!」
吾妻橋を渡り終わってあの私の家族「生と死の分かれ道」の角にたちました。
みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。
今はサッポロビールではなくアサヒビールに変っていました。
驚いた事にあの地点の真上にかの有名なアサヒビールの広告塔が建っていたのです。

「もしかしたら?」

と少しは思いましたがまさか我が家の生と死の道標のまったく頭上に
造られているとは思いもよりませんでした。
ビールの泡?雲?お芋?その奇妙なビール会社の広告塔は
意表をついて話題ではありましたが高速からみると
町の景観を損なう感じがしていました。
イタリヤの新進作家が聖火台の炎をイメージして製作したということが
後に分りましたが出来れば高速道路から眺める人々を配慮して
炎の方向を天に向けてほしいものだと思っていましたが
現金なもので私の記念塔となると愛着が湧いて来ました。


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アサヒビール(昔サッポロビール)


高速道路からではなく下から見つめると台の黒と黄色のコントラストの調和が
なかなか良くみえてきました。
そんなことを思いながら重浦さんの家のあったあたりへの道に向いました。
老舗の海老屋も包丁の正本も店鋪は昔の場所には出していないようでした。
懐かしい重浦さんの長家の辺りには、平凡な家々が立ち並んでいました。
昔の長屋はアパートに変わりました。
たしか子供の頃の記憶では小さな橋を渡った記憶がありました。
そんな所に隅田川の他に川があるのだろうか?
50年前の記憶です。
自信はありませんでしたが道をたどってゆくと橋があったのです。


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記憶は間違っていなかった枕橋

「あの日から五十年の歳月がたちました。」

あの日から五十年の歳月がたちました。
あの炎の嵐の渦巻く大空襲の日とはうって変って
今日の吾妻橋はおだやかな春でした。
吾妻橋の上から兄達と凧あげをして遊びまわった駒形橋もみえました。
戦争の事を振り返る暇も無く前を向いて懸命に生けて来た日々が
愛おしく想えました。
厩橋、両国橋を経て娘達が結婚式をあげた東京ベイブリッジのある川下へ
この水がつながっていたおかげです。

春のうららの隅田川
のぼり下りの舟人が…

思わず口ずさみたくなるような春風のそよぐ橋を渡たりました。
父とよく手をつないで吾妻橋を渡ったものでした。
ボートの早慶戦や寒中水泳もここで見物したのを覚えていました。
川上の方をみると東武線の為の橋がみえました。
そのむこうが炎の橋となった言問橋なのです。
私は感慨無量になりました。


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吾妻橋より言問橋を望む

「戦火をくぐったお母さん達の隅田川ね」

私達夫婦の生活のしみこんだ場所をみつけて東京にいる実感が
やっと涌いてきてほっとしました。
私が子供のころ親類中の従姉妹たちとともに木の船に乗ってすだてにでかけた
同じ隅田川とはとてもおもいにくいほど両岸は近代的に染め替えられ
ただただ驚くばかりでした。
私は勝関橋のずうっと上流に生まれ育った下町の橋がみえないかと思ったのです。

「生涯忘れられない戦火の中を逃げ惑った十二歳の時の記憶」を
わたしは思い起こしたのです。
高いピルにさえぎられ下町の橋は残念ながらみえませんでしたが
いつかその道をもう一度たどってみようとその時決心しました。

「勝どき橋の向こうに両国や駒形橋、吾妻橋、それから
 言問(こととい)橋も見えるはずなのよ。
 ゆりかもめになって空からずーっと見て行きたいわね。
 もう五十年も前になってしまうけど言問橋で
 数えきれない母子が焼け死んでいったのよ。
 このままでは忘れられてしまうわね!」

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「戦火をくぐったお母さん達の隅田川ね」
「でも大切な事ね」
「お母さん。たまにはお店を離れてこんな時間を持つのもいいでしょう。
 一生一度の時ぐらいですもの。こん時にしかお店からひっぱりだしてあげられないものね」


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昭和20年3月10日 B29の絨毯爆撃
(背景の写真は理由を話して国土地理院で買い求め飛行機と焼夷弾を描いて
言問橋と吾妻橋と観音様を想像してみました。)


母として娘にしてあげたかった事、心残りの思い出が走馬灯のように
私の胸の中をゆきすぎてゆきました。
ふとふりかえると主人は息子になる人の父親と喜びと寂しさのいりまじった
紅茶を味わいながら雑談にふけってくれていました。

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大奈良の裏庭「嬉しい紅玉のりんご」
ギャラリー
  • 「戦火に燃えた日も同じ三月のはじめでした。」
  • 「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」
  • 「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」
  • 「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」
  • 「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」
  • 「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」
  • 「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」
  • 「あの日から五十年の歳月がたちました。」
  • 「浅草を知る戦災を体験した生存者のいかに少なかったことか!」

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