つれづれなるままに歴史にむかひて

東京大空襲から逃れた一人の女の子の実話です。 ここでは私が知った歴史を綴っています。

言問橋

「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」

あの日炎上していた向こう岸も桜が咲きそろい
豊かな隅田川の水にうす桃色の姿をそえていました。
私はお花見の準備の人の中を通りぬけ急いで言問橋にむかいました。
前方に見える言問橋はかもめが翼を大きく開げたように水色に輝いていました。
桜の花を両側にかかえ高いピルを背景に隅田川のうえに言問橋は平和そのものです。
橋をくぐって、二そうのボンボン蒸気が後先になってこちらへ走ってきました。

「戦災者の記念塔はどこでしょうか」
炎の橋行き交う何人かの人に尋ねたのですが誰も知らないといわれました。


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言問橋上から戦火を逃れた道を見渡す


頭からある筈と信じていましたからそれらしいものが何もないのが実に意外でした。
現場にゆけば分ると思いこんで来た私がうかつだとは思えません。
あのような大きな犠牲を出した記念碑がこのあたりに誰にも分るようあるのが
当然だと私は思っていました。
私には信じられない想いでした。
桜橋という新しい橋が言問橋の上流に見えるのに記念碑はその日は見つかりませんでした。

店の開店時間を前に私には時間がなかったので当時を思い出しながら
言問橋を独りで歩きはじめました。
橋の巾はかなり広く仕事の自動車がゆうゆうと走ってゆきますが
人は私意外は誰も渡っていませんでした。
あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。

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母子の倒れていたあたりに桜のタイル

言問橋はこんなに大きな橋だったのに戦災の時、向島側からも浅草側からも
逃げて来た人がぶつかりあってその混乱の渦の中に
上から油脂焼夷弾の総攻撃にあい、折からの暴風の炎の火の粉で恐怖におののきながら
亡くなった人達の魂はその事を知る私や何人かの遺族が弔うだけでは
酷どすぎるのではないかと私には思えました。

「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」

「あったl 」 と独りで思わず歓声をあげてしまいました。
川幅三十メートル位に思える小さな川にかかる 可愛い橋でした。
橋の名も「枕橋」とかいてあり幻の橋にふさわしい良い名だと思いながら
橋のたもとを見回すと細い桜の木が植えであって七分咲きに花をつけていました。
私と記念写真を撮りました。
なんと橋のむこう側には茶店まで出ていました。
川には船が二、 三そう休んでいてのどかにゆれていました。
久しぶりにとても幸せな気持になって橋を渡りました。

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B29 に総攻撃を受ける言問橋〈昭和20 年3 月10 日〉


これも後にわかった事で今 は橋の上に高速道路がかかり
その面影もないのですが円生の落語「百年目」に生き生きと語られております
「柳橋を出て吾妻橋を渡り枕橋を渡って…」と渡し船で昔文人たちが通う
艶っぽいところだった様子です。
昔はこの小さな川から隅田川に出る角に立派な八百松という料亭があったそうです。
風流な光景が想像されます。
戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。
この辺りかと思われるところに何人かの人がもうお花見を始めていました。
今も変わらない下町らしく季節を楽しむ気風を羨ましく思いながら
私は静かに対岸の景色を眺めました。


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平和を取り戻した炎の橋(言問橋) 

「あの日から五十年の歳月がたちました。」

あの日から五十年の歳月がたちました。
あの炎の嵐の渦巻く大空襲の日とはうって変って
今日の吾妻橋はおだやかな春でした。
吾妻橋の上から兄達と凧あげをして遊びまわった駒形橋もみえました。
戦争の事を振り返る暇も無く前を向いて懸命に生けて来た日々が
愛おしく想えました。
厩橋、両国橋を経て娘達が結婚式をあげた東京ベイブリッジのある川下へ
この水がつながっていたおかげです。

春のうららの隅田川
のぼり下りの舟人が…

思わず口ずさみたくなるような春風のそよぐ橋を渡たりました。
父とよく手をつないで吾妻橋を渡ったものでした。
ボートの早慶戦や寒中水泳もここで見物したのを覚えていました。
川上の方をみると東武線の為の橋がみえました。
そのむこうが炎の橋となった言問橋なのです。
私は感慨無量になりました。


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吾妻橋より言問橋を望む

「戦火をくぐったお母さん達の隅田川ね」

私達夫婦の生活のしみこんだ場所をみつけて東京にいる実感が
やっと涌いてきてほっとしました。
私が子供のころ親類中の従姉妹たちとともに木の船に乗ってすだてにでかけた
同じ隅田川とはとてもおもいにくいほど両岸は近代的に染め替えられ
ただただ驚くばかりでした。
私は勝関橋のずうっと上流に生まれ育った下町の橋がみえないかと思ったのです。

「生涯忘れられない戦火の中を逃げ惑った十二歳の時の記憶」を
わたしは思い起こしたのです。
高いピルにさえぎられ下町の橋は残念ながらみえませんでしたが
いつかその道をもう一度たどってみようとその時決心しました。

「勝どき橋の向こうに両国や駒形橋、吾妻橋、それから
 言問(こととい)橋も見えるはずなのよ。
 ゆりかもめになって空からずーっと見て行きたいわね。
 もう五十年も前になってしまうけど言問橋で
 数えきれない母子が焼け死んでいったのよ。
 このままでは忘れられてしまうわね!」

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「戦火をくぐったお母さん達の隅田川ね」
「でも大切な事ね」
「お母さん。たまにはお店を離れてこんな時間を持つのもいいでしょう。
 一生一度の時ぐらいですもの。こん時にしかお店からひっぱりだしてあげられないものね」


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昭和20年3月10日 B29の絨毯爆撃
(背景の写真は理由を話して国土地理院で買い求め飛行機と焼夷弾を描いて
言問橋と吾妻橋と観音様を想像してみました。)


母として娘にしてあげたかった事、心残りの思い出が走馬灯のように
私の胸の中をゆきすぎてゆきました。
ふとふりかえると主人は息子になる人の父親と喜びと寂しさのいりまじった
紅茶を味わいながら雑談にふけってくれていました。

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大奈良の裏庭「嬉しい紅玉のりんご」
ギャラリー
  • 「戦火に燃えた日も同じ三月のはじめでした。」
  • 「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」
  • 「あの取り残された母子の倒れていたあたりには偶然に桜の花のタイルがはめこまれていました。」
  • 「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」
  • 「戦火の夜、私達を恐怖から守ってくれた桜の木を探しました。」
  • 「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」
  • 「みんな死ぬことを覚悟したあの日から五十年の時が流れました。」
  • 「あの日から五十年の歳月がたちました。」
  • 「浅草を知る戦災を体験した生存者のいかに少なかったことか!」

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