私達夫婦の生活のしみこんだ場所をみつけて東京にいる実感が
やっと涌いてきてほっとしました。
私が子供のころ親類中の従姉妹たちとともに木の船に乗ってすだてにでかけた
同じ隅田川とはとてもおもいにくいほど両岸は近代的に染め替えられ
ただただ驚くばかりでした。
私は勝関橋のずうっと上流に生まれ育った下町の橋がみえないかと思ったのです。

「生涯忘れられない戦火の中を逃げ惑った十二歳の時の記憶」を
わたしは思い起こしたのです。
高いピルにさえぎられ下町の橋は残念ながらみえませんでしたが
いつかその道をもう一度たどってみようとその時決心しました。

「勝どき橋の向こうに両国や駒形橋、吾妻橋、それから
 言問(こととい)橋も見えるはずなのよ。
 ゆりかもめになって空からずーっと見て行きたいわね。
 もう五十年も前になってしまうけど言問橋で
 数えきれない母子が焼け死んでいったのよ。
 このままでは忘れられてしまうわね!」

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「戦火をくぐったお母さん達の隅田川ね」
「でも大切な事ね」
「お母さん。たまにはお店を離れてこんな時間を持つのもいいでしょう。
 一生一度の時ぐらいですもの。こん時にしかお店からひっぱりだしてあげられないものね」


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昭和20年3月10日 B29の絨毯爆撃
(背景の写真は理由を話して国土地理院で買い求め飛行機と焼夷弾を描いて
言問橋と吾妻橋と観音様を想像してみました。)


母として娘にしてあげたかった事、心残りの思い出が走馬灯のように
私の胸の中をゆきすぎてゆきました。
ふとふりかえると主人は息子になる人の父親と喜びと寂しさのいりまじった
紅茶を味わいながら雑談にふけってくれていました。

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大奈良の裏庭「嬉しい紅玉のりんご」